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私の履歴書 蓑輪善藏-その9-
通産省計量教習所所長時代
大正14年に生まれ、37年間を計量国家公務員として働いた男の記録
My Resume Zenzo Minowa-Part 9-Ministry of International Trade and Industry's meteorological training school directo

私の履歴書 蓑輪善藏-その9-通産省計量教習所所長時代


私の履歴書 蓑輪善藏-その9-通産省計量教習所所長時代

私の履歴書 蓑輪善藏-その9-通産省計量教習所所長時代


    写真は蓑輪善藏氏

私の履歴書 蓑輪善藏-その9-通産省計量教習所所長時代


76年7月に計量教習所長に

 1976年3月になると、堀忠良計量教習所長の後任として私が出向することが内定したように思います。自動車教習所に通うことにしたのもそのためだったかと思います。

 計量教習所は人事が停滞し、設立当時から在職している矢萩さんのことと、女子事務員の矢島さんに関するものであり、堀さんは自分が辞めるまでには総てを整理しておく、と私に言っていました。

 計量研通例の4月1日には人事異動が無く、通商産業省人事の関係で7月27日付の辞令になったこともあって、いろいろ準備もできました。堀さんは玉野さんが理事長を務める(社)計量管理協会に席を置きましたが、後(社)日本計量協会に移り専務理事になっています。

 既に川田さんとの間で4部長としての引継ぎは済んでいましたので、早速と計量研の車で必要な書類、私物を東村山の教習所に運んでいただきました。辞令は工業技術院長からの出向辞令と通商産業次官からの教習所長辞令だったように思います。

34年間の計量研生活に別れ

 計量研には34年間勤めたことになりましたが、いやな思い出はほとんどど無く、随分気持ちよく勤めていたのかと今更ながら感じています。結局は大きな期待もされず、適当な、そして人並みな仕事をしていたことによったのでしょう。

 年寄りに育てられたためか、計量研で年配者や先輩に良くしていただいたように思います。米田さんを始め、玉野さん、岡田さん、佐藤さん、朝永さん、酒井さん、大山さん、小泉さん、飯島さん等々です。4部のほか卓球部、テニス部、春秋会(計量研に勤めている理科大OBの会)の人たちに送別会をしていただきました。

当時の計量教習所の事情

 この時の計量教習所のスタッフは、教務班長が矢萩修一さん、技術班長が中原喜敏さん、教習係長の水島敏男さん、環境係長の桜井久夫さん、女子職員の矢島さんとアルバイトの飯島さんでした。

 まず教習所に赴任して驚きましたのは、堀さんが私にくどくど話をしていた矢萩さんと矢島さんの退職についての人事問題は、何ひとつ手がついていなかったことでした。このことと環境計量について、国家試験合格者のための環境計量講習(2週間)、一般計量教習修了者のための環境計量特別教習(2ヶ月)は堀所長が係員に計画の相談もなく1人で決め、1人で始めたもので矢萩さん以下従来からの職員は、協力しないことになっていたということでした。

人事停滞の弊害があらわに

 そのためか環境関係の業務は東村山の機械試験所から出向してきた桜井久夫さんがアルバイトの飯島さんと2人で仕事をしていました。人事問題では堀さんは、矢萩さんと休みがちな矢島さんには話もしていませんでした。

 この2人に退職してもらうため、随分と時間を費やし、神経も使いました。何せ矢萩さんは計量教習所設立以来の人ですし、私など教習所に講義に出向くたびに顔を合わせ、話をした仲で、年齢も上、苦労しました。

 僅かの職員で環境関係の業務を独立的、単独的仕事にしていては、教習所としての業務も、外部への対応もスムーズに行かないので、木挽町の中検時代から仲の良かった中原さんと相談、中原さんを含めて計画、遂行することとしました。

片道2時間の通勤

 1969年に計量教習所は東村山市に設立されていた宿泊設備の整った通商産業研修所内に移っていて、教習生は2人一部屋の全寮制でした。宿泊設備が整ったこともあって講師の方では宿泊して講義をしていた人もありました。

 市川のわが家からは片道2時間程かかり、通勤が大変でした。教習所の講義時間は朝10時から12時までと午後1時から5時までの50分授業で、職員は1人、2人が早い出勤で他は9時半頃までの出勤で間に合い、私などは遠いこともあって、10時少し前の出勤でした。

 研修所内には小さくとも計量教習所長室がありましたが、計量研の4部長室とは違い部長付き係員も無く、静かな環境を楽しんでいました。また久米川駅から研修所までは、研修所の車やタクシーを使っていました。

環境計量教習のことなど

 私が赴任して直ぐの8月、一般計量教習と第4期環境計量特別教習の修了式があり、初めて私の名前の修了証書を渡しました。字の下手な私は、修了証書印刷に使う氏名の手本を、書が堪能であった計量研の藤田伊八さんに下書きを書いてもらいました。この字は環境計量講習にも使っていますので、随分たくさんの修了証書に印刷されているはずです。

 環境計量講習といえば2週間の講習の内、実技1週間は教習所と(社)日本環境測定分析協会(日環境)と分担して行っていましたが、座学の1週間は教習所のみで1年に数回開催していました。1回の講習人数が300~400人にもなるため、会場探しに骨が折れ、東京大学の法学部教室、代々木の青少年センター、計量会館、日しょう会館など、いろいろの所を会場にしました。

 話はそれますがその時使った(社)計量管理協会が発行した値段の高かった「計測者のための教育・訓練」の本を教科書として使いましたので、(社)計量管理協会は相当潤ったはずです。

教習所の体制正常化

 間もなく矢萩さんの退職が決まり、中原喜敏さんが教務班長に、また水島敏男さんが技術班長として教習生を監督することになり、退職した矢島さんの代わりに本省から田中紀美子さんが赴任してきました。

 この頃になり漸く教習所の体制も、業務も正常になったように思います。教習内容にも目を配り始め、数学の授業は物理の授業の中で必要な部分を教えることになっていましたが、物理以外の教師から、授業に差し障りがあるとの意見もあって、数学の授業を復活させ、さらに電気の基礎と実験を新設するため、玉川大学にいた菅野允さんと法政大学にいた望月武さんとにお願いをしに行き菅野さんに講義を、法政大学の松田さんに実験を見てもらうことになりました。

計量の実技習得教習に苦心

 教習所は知識も大切ですが、計量器に対する実務が必要と考え、実習を充実する総合的実習を加え修了実習として長さ、電気抵抗、力と液体密度の測定の四つを新設、また千葉県の斎藤所長と相談して、行政不服審査法の特別講義と千葉県計量検定所の協力を得て大型はかりの検定実習を再開しました。

 このときの一般計量教習課程での修了前1ヶ月ほどは、行政機関からの生徒と民間からの生徒を区別し公務員コースと計量士コースとの2つの授業体制をとり、授業の効率化をしたため、時間を有効に使えたことから、新しい発想も出てきました。

計審使用事業場分科会長

 計量行政審議会関係では幾つかの委員はそのまま引き続いていましたが、計量教習所長として堀さんが担当していた計量管理及び計量士専門部会の計量器使用事業場分科会長を引き継ぎ、計量法上における計量管理のあり方、計量器使用事業場の拡大等を検討、1976年に答申しています。

 この時の会議で計量器使用事業場の指定権限について政令指定都市の大阪市の岩田さんと名古屋市の畠山さんから都道府県と同じ立場にある政令指定都市に指定権限を与えるべきとの意見があり、千葉県の斎藤さん達との間で随分と活発な意見の交換があったことが思い出されます。

環境計量特別教習修了者面接試験

 環境関係は、国家試験合格者のための環境計量講習は1週間の実習と、1週間の座学で環境計量士になるための条件が整うことになっていましたが、一般計量教習(5ヶ月)修了者のための環境計量特別教習(2ヶ月)の修了者は、経験年数を面接試験で確認することになっていました。この教習は計量行政公務員を対象にしたものですが、環境計量士を希望する人も受講できるようになっていましたので、1年に数人がこの面接を受験していました。

答えに窮する修了生も

 この面接は計量教習所長が委員長を務め、面接委員は東京都計量検定所長と計量研、物質研、資源技術研、電総研から計量管理、大気汚染、水質汚濁、騒音・振動の各担当官が当たり、経験の程度を査定していました。この面接は受験者1人がこれだけの担当官に囲まれて質問されるため、平常心では答えられず、苦労した人が随分多かったようでした。

 教習所長は教育の責任者でもあり、質問に答が出ないときにはハラハラしたものでした。面接が始まる最初、気分をほぐそうと色々な話をしながら面接に持っていきました。2ヶ月の環境計量特別教習が修了する時には、面接で必ず問われる質問の幾つかを話しておくのですが、面接の時それが答えられないことが多く、腹立たしい気がしたこともありました。

ゴルフは10回しただけ

 通商産業研修所は主幹が総てを仕切り、所長は官房長の兼任で、大きな所長室はあっても所長のいたためしはありませんでした。

 私が赴任した当時の主幹は鬼塚さんで昼休みには体育館でバドミントンをしていて、はじめの頃私も参加してラケットを振っていました。

 教習所の桜井さんは機械試験所時代、野球、卓球の正選手、ゴルフもシングルの腕前でスポーツ万能選手、私も随分一緒させられました。ゴルフも計量課の旅行会に参加しては何回か若い人たちとグリーンを回りました。私はゴルフにかかる費用や朝早くから丸1日の拘束には耐えられず、ここまで全然練習もしたことがありませんでした。ゴルフをしなければ人にあらず、の風潮、電車を待つ間も洋傘を振る姿、大きな荷物を混む電車に持ち込むのを見れば、天邪鬼な私は亡国のスポーツなどと毒づいていました。ゴルフはその後熱中しませんでしたが、弟達とのコンペを含めて10指近く、練習もせずにグリーンを回っただけです。

 初めて計量課のゴルフコンペに参加する前、研修所の鳥かごでクラブを振り練習をしましたが、なかなかまともに当たらず、野球やテニスに自信を持っていた私としては不甲斐ない思いをしたものです。この頃にゴルフの盛んな兵庫県の方々がきましたが、話の中で初めてのグリーンではドライバーは使わず、5番アイアンからにしたらなどと注意されたことが思い出されます。

 教習所職員の昼休みは午後の授業が始まってからの1時間でしたので、教室近くのテニスコートは使うことができませんので専ら体育館でのバドミントンや卓球でした。

高橋照二さんの計量研退職

 計量教習所に移って1年ぐらい経った頃でしょうか、高橋照二さんから計量研退職の相談がありました。

 はかりの専門家として長い間計量法の施行に、教育に、指導に携わってきましたが、先輩、同僚も少なくなり、幹部も若くなり、そろそろ退職の時期と考えたことのようでした。

 高橋さんは計量研入所、物理学校とも1年先輩でしたが、計量研内では一緒に野球チームを作ったりして同じように過ごしてきていました。高橋さんの希望も聞き、面識はありませんでしたがタニタ製作所の神谷茂社長にお願いに伺いました。快く会っても頂き、話がスムーズに進み、計量研にバトンを渡し、高橋さんはタニタに移りました。

酒井五郎さんと天野重昭さん

 物理学校の先輩で、4部2課長の前任者酒井五郎さんが、千野製作所を退き、後任の推薦と、計量士の仕事に変わりたいとの希望を話しにきたのもこの頃だったでしょう。後任には天野重昭さんを推し、酒井さんの仕事は千葉県の斎藤勝夫さんにお願いし決めてもらいました。

通産研修所との交流

 通商産業研修所は官房総務課の所管でしたが、私の在任中に野球や卓球などでの顔見知りの人達も職員として在職していたこともあって、研修所とも仲良く付き合っていました。終戦後間もなくの頃、中検に在職していた飯島和子さんがアルバイトで研修所の受付にいたのも奇遇でした。また計量課にいた鷲沢さんも一時研修所の主幹になっていて、研修所と教習所一緒の旅行に石和温泉に行ったこともありました。

 元大阪通産局長で病気のリハビリを兼ねて研修所長になり、毎日所長室にいた人で、囲碁の上手な人がいて、碁がリハビリに良いということもあって、私も随分とお相手をしましたし、プロ棋士の白江治彦七段が見えたときには、研修所長と一緒に白江さんに打っていただいたことも何回かありました。

数学、物理の補習授業

 都道府県や特定市から一般計量教習に入所する人の中には、配置転換で他部局から移ってきた人、新卒でも物理の単位を履修していない人や、数学にも馴染んでいない人がいて、講義に苦労する人もいました。少なくとも高校初期位までのものを思い出しておいてほしいので、中原さんにも無理をお願いし、教習が始まる2週間ほどを当てて中原さんに物理、私が数学の基礎を補修授業したこともありました。

 一般計量教習を終え環境計量特別教習を受講する人達は毎期30名程で、環境計量士の取得を目的にする者約10名内外、それに都道府県や特定市から、指導、監督の立場から必用な知識を得るための人達でした。

化学的知識と環境計量特別教習

 都道府県や特定市からの受講者は、物理、工学方面の知識は持っていますが、化学については使うことも殆ど無く、化学的知識を必要とする環境計量特別教習にきて戸惑うことが多かったようでしたので、受講が決まった時、原子記号、分子量などの初歩的勉強を要請したこともありました。

 そんなことで2ヶ月間の環境に関する授業は、相当に骨が折れたようでした。そこで慰労の意味合いから、特に年配者を中心に都道府県からの受講者何人かを、教習の終了間際わが家に招き、一夜の宴を催したことが数回ありました。

度量衡技術講習等の修了者名簿

 計量教習所の前身は中央度量衡検定所が1903年から行っていた度量衡技術講習ですが、この講習の修了者名簿も無ければ、計量教習の修了者名簿も作られていませんでした。そこで、初めに1903年からの修了者を度量衡協会の雑誌「度量衡」から調べ、1341名の名簿を作り、ついで計量教習の54期までの名簿を、費用が無いためガリ版刷りで完成させました。雑誌「度量衡」を調べるため何日も、暇を見つけては計量会館に通いましたが、本宮大介さんと小泉袈裟勝さんや佐藤次郎さんとご一緒してはお酒を飲んでいたことが思い出されます。

本宮大介さん

 この頃からでしょうか本宮さんは、早く教習所を辞めて計量士会にこい、きてくれと勧誘されていたのを思い出します。艶福家の本宮さんも家族のこともあってでしょうか、早く宮崎県西都市にいる奥さんの所に帰りたかったようでした。

通産研修所バーでの酒宴

 通産研修所には理髪所の他バーもあり、夕刻5時半頃からウイスキーやお酒を傾けることもできました。

 教習所長は地方から受講者の陣中見舞いなどに来所する方々も多く、時にウイスキーなどをいただくくことがあり、これをバーにキープしていましたので、それを飲みながら講師の先生方と懇談していたことが思い出されます。今考えても家が遠いのに、ここでお酒を飲み夕食はどうしたのか思い出せませんが、毎晩遅い帰りだったことは確かです。

 教習生の中には酒豪もいて、家から焼酎を送らせたり、バーでウイスキーを相当数飲み干した人もいたようです。

筑波からの旅費満額獲得

 機械試験所の筑波移転に伴う村山分室の跡地利用問題は、堀所長のときに通商産業省として運動場や計量教習所の環境関係と大型はかりなどの実習設備を含めて土地取得を要求していたようで、この頃に漸く本格化の要求になってきていました。

 要求の必要性と肉付けをさせられましたが、要求の理由付けに教習所が利用されただけであることはこの頃から判ってはいましたが。

 1979年の予算要求は1978年の6月には第一次ヒヤリングがありました。教習所としての主な要求は環境講習、環境教習と一般教習の実験器具の整備、講師の謝金、旅費等で計量課を通してのものでした。この時の要求では、計量研が翌年の後半筑波に移ることになっていたため、計量研からの講師旅費の要求がありましたが、1979年1月はじめ満額が認められました。

米田さんの逝去

 1月15日から福岡、山口、広島、大阪を回って20日に帰ってきましたら、米田さんが亡くなられており、21日の神式による通夜に伺いました。

計量課の意向と所長退任

 1979年になって間もなく、計量研の桜井所長から連絡があり、初めての肩叩きがありました。計量教習所長になる時の、2~3年という話もありましたので、計量課からの申し入れとのことでした。

 退職するについては、私もまだ54才、次の就職を考えてほしいとお願いしたところ、(財)製品安全協会の検査部長が空いているが、との話がありました。前に計量課にいて、その時には工業品検査所に帰っていた大坪睦治さんに調べて貰いましたが、(財)製品安全協会の検査部長は定年が57才であり、薦められませんとのことでした。

日本計量士会に移る

 桜井所長には自分で見つけるからと就職の世話を断りました。

 本宮大介さんや小泉袈裟勝さんとの義理もあり、(社)日本計量士会に移ることに覚悟を決めたのもこの頃で、この年の3月には退職願を庶務室に預けました。

 ただ後任人事がスムーズにいかず、私は桜井所長には大阪支所長の高井登さんを推薦していましたが、高井さんの断りなのか、計量課に押し切られたのか、話をしなかったのか、等級的に無理があった渡辺修一さんを持ち出され、強引な取り扱いで、とうとう12月までかかって漸く私も退職することが出来ました。

 計量研からの所長では思うようにならなかった思いが計量課にあったのかも知れません。私が計量士会に移る時に計量課長はただ、計量士会のような格の低いところで良いのか、と言っただけでした。

機振協技術試験所長時代の朝永さん

 国家試験合格者の環境計量講習の実習は、東久留米の鋳物センターで行われていましたが、ここは(財)機械振興協会技術試験所の敷地内で、技術試験所長は朝永さんでしたので、実習があると必ず一度は、鋳物センターに行って、その度ごとに朝永良夫さんにお目にかかっていたように思います。朝永さんが(社)日本計量協会の会長になられたのもこの頃でしよう。

 朝永さんには都道府県計量検定所長と(社)日本計量協会との関係、その他協会の事情などを話したことが思い出されますが、朝永さんは、専務理事の堀忠良さんを相当に信用されていたようでした。

大原和三郎さんにご馳走に

 これらの他計量教習所に移っていろいろの思い出がありますが、玉野さん、堀さんと一緒に当時日本計量協会副会長だった大原和三郎さんに何回かご馳走になったり、計量教習所の同窓会を作る計画をしたり、環境計量の講師を依頼するため、立地公害局、東京工業試験所、資源技術試験所などに講師の依頼をお願いに行きました。

 環境庁企画室に行ったとき、通産省から出向していた事務官に、いわれのない嫌味をとうとうとしゃべられ、団体主管の計量教習所と思われ、謝金の額などから計量教習所は潰れるぞ、などと言われたこともありました。その他国立衛生研究所、大学、日立製作所、島津製作所、オルガノ、リオン等々から講師をお願いしていました。

(つづく)

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私の履歴書 蓑輪善藏 目次

私の履歴書 蓑輪善藏-その1-佐原で造り酒屋の分家の長男として生まれる
私の履歴書 蓑輪善藏-その2-天野清技師との機縁で中央度量衡検定所に入所
私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
私の履歴書 蓑輪善藏-その4-戦時色が強まる中の中央度量衡検定所
私の履歴書 蓑輪善藏-その5-戦後復興と中央度量衡検定所の再建
私の履歴書 蓑輪善藏-その6-戦後自由思想と中央度量衡検定所の息吹
私の履歴書 蓑輪善藏-その7-度量衡法改正から環境計測の取り込みまで
私の履歴書 蓑輪善藏-その8-計量研究所第4部長時代のこと
私の履歴書 蓑輪善藏-その9-通産省計量教習所所長時代



私の履歴書 安斎正一 目次
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その1-本欄の執筆をなぜ私が?
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その2-私の職場
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その3-私が生まれた日と父母兄弟について
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その4-夜間高校生と計量士との出会い
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その5-大学進学と空腹の日々
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その6-妻との出会い
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その7-寺岡精工へ入社
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その8-計量教習所と計量士資格取得
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その9-計量士資格取得
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その10-計量士会入会から役員35年間続く
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その11-寺岡精工CIは「新しい常識を創造する」
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その12-思い出に残る出来事 人命救助…お手柄少年安斎正一君
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その13-思い出に残る出来事 中学校の校長は「君は大きくなったら、偉い人になる」
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その14-私の内外の友 セブン銀行社長安斎隆氏は私と同郷、同級、同姓の仲
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その15-私の内外の友 アメリカ、マレーシア、オーストラリア、カナダ、香港に友あり
私の履歴書 安斎正一(計量士)-その16-思い出に残る出来事 米兵との出会いに思わず涙

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版)-その1-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第1編 公務員人生を歩みだす
千葉県中の「ハカリ」を検査を一人でする。新品は係長が検定をやる。日曜もなしだ。

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その2-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第2編 度量衡法末期の実状
「国敗れても度量衡行政は敢然として実施する」難行を経験者として語り継ぐ

私の履歴書 齊藤勝夫(元千葉県計量検定所長、元流山市助役)(日本計量新報デジタル版) -その3-
第一章 私の歩んだ道-公務員として信念を持って 第3編 新しい夜明け、計量法の歩み
1960年代以降、人口急増と工業県に変遷していく中での千葉県の計量行政に全身全霊で取り組む


私の履歴書 高徳芳忠 神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録(日本計量新報デジタル版)

神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録-その1-はじめに
西宮高校から神戸大学の計測工学科に進み川崎製鉄千葉製鉄所で計量の仕事を始める

私の履歴書 高徳芳忠(たかとく・よしただ)(日本計量新報デジタル版)
神戸大学計測工学科をでて製鉄会社で計量管理の仕事をした男の記録 -その2-我が家と計量の係わり
祖父の高徳純教が「はかり屋」を始め社名に「メートル」を用いた気概に敬服

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